反則家族

今月の文芸誌は『文藝』しか買ってなくて、しかも高橋源一郎×橋本麻里対談をちらっとしか読んでいない。親子対談なんて反則だよー。ま、スキをみておいおい読んでいこう。文芸三誌って同月の各誌に載ってるものを、自分好みに編集して一冊に纏めることができれば毎月必ず買うんだけどな。

あらゆる場所にコミュニティが......

コミュニティ グローバル化と社会理論の変容
を読み始める。3章まで。3章の「都市コミュニティ」は高祖岩三郎が連載している『ニューヨーク列伝』を読む手がかりになる。それにしても「コミュニティ」って語は、どの立場によって使用するかによって変わってくるわけで、そこらへんは昨今の「公共」をめぐる抗争(上からの公共か、下からの公共か。むろんどちらも公共という語を使用するから、どちらが可能性に開かれた使用かを吟味していかなければならない)。同様に、小規模コミュニティ(それを構成する人々が隣接する場合もそうでない場合もありうる)から世界大のコミュニティまで、あらゆる場所にコミュニティがあるわけで、果てはコミューンなものなきコミュニティまで「ある」(はやくナンシー読まなくちゃ)。と、ここまで大風呂敷を広げれば昨日読んだ『病の哲学』にも繋がっていくだろう。続きは明日。

反撃は届くか

『リベラルからの反撃』読了。僕は「クズどものクズどもによるクズどものための政治」って言う「来るべき民主主義」に親和的なんだけど、そういう言説がある程度人々の耳を驚かせなくなることで、この本の主流をなす中道寄りに世の趨勢がシフトすればそれはそれでよし、という(悪い?)プラグマティストでもある。(わかりやすく言うと、「ノマド」とか「戦争機械」って言いつつ、日本の政治がギデンズ的な第三の道に進むのならそれでいいや、ってこと)。そういう不誠実な態度はこの本に収録されている井上達夫からすると許せない態度であるだろうね。(しかも批判されるであろう僕にしてからが、井上達夫の「9条削除論ー憲法論議の欺瞞を断つ」のいつもながらの鋭利な文章に「胸がすいちゃっている」のだから始末に終えない)。あ、そうそうその井上達夫論文の後記にナカニシヤ出版から共著『公共性の法哲学』が刊行準備中とある。共著というからには他に誰が書くんだろうか。気になる。
味わい深かったのが『政治家は「勇ましい姿」より「ちょっと待てよ」の気概を』と題された座談会で、久間章生×太田昭弘×仙谷由人という構成。「保守主義とは大人の知恵」というが、まさにそれで、いやしくも「保守」を名乗るならばこれぐらいの気構えは持って欲しい。彼らは、昨今の右傾化を逸脱とみなし、それに対する揺り戻しは来るだろうと見ているが、しかしそれは若干希望も込みでの観測ではないかとも思える。無論、この右傾化が一過性のものであって欲しいが。
最後に佐伯啓思について一言。戦後日本における、アメリカに対するねじれた構造の指摘は(いつも)肯かせられることも多いが、それをアメリカニズムと見て、リベラルからリバタリアズムまで一纏めにして斬って捨てるのは粗雑に過ぎると思う。それでは何が残るのか、いつも読んでいて分からなくなる。日本的なるものを称揚するにしても、必ずヨーロッパを迂回してという点も気になる。ポモ的言説の理解も途中までは「なるほど」と思わせつつもいつも最後で梯子を外されるような気がする。それは、
テロの社会学
大澤真幸との対談で触れられている、「親子モデル」と「恋愛モデル」の差から来るのかも知れない。もうすぐ出る
学問の力  NTT出版ライブラリーレゾナント023
もなんだかんだ言って買っちゃうかも知れないけど。


ブックガイド書いてる五野井郁夫って同い年なのか。

今日購入した本

1.『私に触れるな』(未来社ジャン=リュック・ナンシー 荻野厚志訳
ノーコメント。はやく読まなきゃね。
2.『<フェミニン>の哲学』(青土社後藤浩子
「秘密結社サドッホ」って。(後書き参照)