まとめにくい

戦闘美少女の精神分析』読了。東浩紀の解説より引用

そして、先駆的であるとは、猥雑であるということでもある。本書には実に多くのノイズや矛盾が含まれている。たとえば本書は、戦闘美少女の出現を「ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間において鏡像的に反転したもの」として普遍的に説明する一方で、日本独自の文化現象として特殊的にも位置づけている。この二つの立場は折り合いがつかないし、実際に本書のなかで不協和音を奏でている。そもそも、ヘンリー・ダーガーの作品分析からラカン精神分析の理論、それにオタクの告白まで詰め込まれた構成は、あまりにも猥雑で主題を拡散させている。しかし、これらの弱点は、議論の未成熟というより、著者の熱意と新しいパラダイムの産みの苦しみを示していると考えた方がよい。出版から六年が経過したいまも、本書には未展開のヒントやアイデアが数多く眠っている。読者には、ぜひその可能性を自らの手で掘り起こしてほしい。

このノイズって言うのは、オタクをクリアに定義付けようとすればするほど横道に逸れていく事態を指しているのだろう。(もっとも、斎藤環のこのオタク論の核にはセクシュアリティの問題が不動の四番バッターとして動かないから、それを確保した上での揺らぎではあるのだが)。僕は萌えという感覚がイマイチ実感できないのだけど、これって「ファリック・ガール」よりも「ファリック・マザー」の方が依然として僕の身近に在ることによって規定されているかもしれない。