単なる女がなぜ単なる女である事が出来ないか(資本のせい?)

徳田秋声「新世帯・足袋の底」(岩波文庫)を読む。
山の手で小さな店を商っている新吉に、八王子の外れを生家にするお作が嫁ぐ。この「新世帯」に新吉の友人・小野が詐欺で捕まったことにより、その妻お国が新吉の家に転がり込んでくる。ここに重層的な二層構造が見て取れる。まず、新吉/お作には、男/女、都/鄙という決定的に権力の非対称性がある。お作/お国は二人とも「理想の妻」像からのズレを孕んでいるが、その孕み方は、お作が「使えない」妻であるのに対して、お国が「お里の知れない」妻であるところにある。普通からのズレのあり方が異なっているのだが、この二人を対にすると見えてくるものがある。さらに新吉/小野には、「いい商売人」/「悪い商売人」という二項対立がある。さてタイトル「新世帯」は結婚による新たな世帯の創出の意味と共に、少年の頃は「使用人」として働きついに自分の店を持った新吉の、階級上昇の「新しさ」をも含んでいるだろう。そう、小さいとはいえ新吉は資本家なのである。そして彼のエトスは勤勉そのものなのであって、それの意味するところはお分かりだろう。プロ倫(以下略)彼がお作との結婚を失敗だとみなすのは、彼女が商売上(パブリック)も家庭(プライベート)でも「使えない」からであり、それはつまりお作がそうであるところの「単なる女」以上であることを要求しているのであり、それを要求するのは単に新吉の主観(それもあるが)を超えて資本のエンジンがドライブすることが強いる要請だと言えるだろう。それが「山の手、商家」の理論であり、彼女が「単なる女」のままでいられる「田舎、百姓」の世界とは際立った対照を成す。そしてこの対立する二者の間に闖入するお国。お作が妊娠のため実家に戻っている間に、新吉の家に転がり込むのだが、この「不適当」な女も最終的に似は「山の手、商家」という近代的な場から排除され、夫が拘留され、生活するために茶屋へと追放される。この追放劇にほどなくお作は二度目の妊娠をして、新吉の家に「場を持つ」ことになるのだが、秋声の描写にはいささかの喜びも書かれてはいない。いわばお作はこの自らとは異質な論理を貫徹する「新吉の場」に囲い込まれることによって、彼女もまた追放されるといえよう。「単なる女」がもはや「単なる女」ではいられない場が近代なのであり、主婦というあり方なのではないだろうか。