「これはなしだ」くらいしか「あり」ではない

単行本で読んではいたが、文庫本で出たので『銃』をもう一度読む。僕(たち)の決断が(わりと本気にもかかわらず←この「わりと」が一つのポイントではある。もうストレートに本気を出そうにも、この「わりと」は混入してくるのだ)いかにショボイものか(=英雄的でないか、僕たちはハイデガーではないのだ)を考えるのに絶好のテクストである。主人公は銃=自由(by中島一夫の解説)に魅せられつつ、銃=自由に隷属していく(=もはや自由ではない)。かなり乱暴に要約するとこうなる。
「なんだよ、結局コントロール社会ってことかよ」。うん、まあそうなんだけど、より極端な事例を考えてみよう。
1.銃=自由がもたらす完全な全能感
2.銃という「他なるもの」への完全な服従
この小説は1.および2.の極端な要素を少し含みつつ、そのどちらでもないというのがポイントである。つまり、全能感への道筋はあっけなく挫折し、かといって「自由の刑に服従」するにしては選びすぎている。決してなすがままではなくそのつど決断をしているのだ、主人公は。にもかかわらず、と言っていいのか、だからこそと言っていいのか(どちらとも言いえる)のショボい結末(「これはなしだ」)が僕(たち)の「自由」のヌケの悪さを語っている。と書くとなんだかすごそうで深遠な小説のように思えるが、この小説自体が「そんなに言うほど傑作ではない」点でさらにこのショボさの裏書きを遂行し、そしてこの遂行が結果としてこの小説を味わい深くしている。(悪を描こうと意気込んでもその悪はショボいものに過ぎず、そのショボさを書ききるくらいしかその悪に誠実に向かい合うことは出来ない。そして僕たちはまた大時代的な悪を書くことのコッケイさを知ってもいる。ショボさに居直るのではなく、踏みとどまること。この時代に良い小説を書こうと思うと、とりあえずはこの倫理を保持するしかない(んじゃないかな?と思わず弱気になる。その弱気になる点も含めて)。僕たちが持っている銃=自由とはこの程度のものなのだから)。
銃 (新潮文庫)