正史の書き換え問題

『バブル文化論』読了。この本が指摘するように90年代による80年代の書き換え問題というのは確かにあって、僕にとって80年代とはポス・パン/ニュー・ウェーブの時代としてついつい認知してしまっている。それは90年代の当時オルタナと称された音楽を聴いていて、その影響関係を遡って80年代を発見したからであり、80年代がそれに尽きるわけではない。「天国注射」的なものを80年代と言うと真っ先に思い浮かべてしまうのは、事後的かつ想像的に振り返ることが許された90年代に子どもたち(=含む僕)のなかでも限られた数であろう。同様のステップを踏んで80年代は「おたく」の時代でもなかった。というかそれら(のみ)で代表される時代ではなかったにもかかわらず、それらに80年代を代表させてもなんとなく腑に落ちるようになっているのが2006年の現状だと言えるのでは?。しかも、誰がどのポジションで振り返るかによって、80年代の相貌がかなり変わってくるにもかかわらずに(おたく的視点とサブカル的視点etc)。趣味の島宇宙化とか、もはやトータルに振り返ることが出来なくなった時代としての80年代。で、この本のどこが白眉かというとそんな80年代をトータルに振り返っているところではないだろうか。『敗北を抱きしめて』の「だきしめて」はembracingなんだが、まさに80年代をembracingしているというか。何度か涙腺が緩みそうになった、この時代の当事者でもないのに。
バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代