春樹をダシに

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)
読了。村上春樹の小説で女性が欲望する主体としてあらわれると、途端に罰せられるというのは『海辺のカフカ』に限らず、「あれもこれも」いろいろ思い当たる。春樹におけるミソジニーを指摘し続けることは重要なんだけど、それをもって「従軍慰安婦問題」の「記憶の忘却」に結び付けるには、若干精緻さに欠けるところがあるように思う。もちろん「従軍慰安婦」バッシングへの危機感というのは分からないではないが(というかよく分かるからこそ)それは別に春樹をダシにしなくてもいのではないか。いや、春樹をダシにして出来ないこともないが、そうするには議論が性急であったように思う。また、春樹の小説が癒しの教説になってしまっていることへの違和の表明にも共感はするものの、この新書での議論の進め方にもまたちょっとした違和のようなものを感じる。(「思う」とか「感じる」ばかりで、僕の方もまたダメなんだけども)
あとこの辺の記述も

ナカタさんが記憶を「欠落」させた、国民学校四年生のとき、彼は九歳でした。つまり、ナカタさんは、早生まれの国民学校一期生だったということになります。世代的に言うと、国民学校一期生の世代の前後は、最も素直に、敗戦後の日本社会の民主主義的な変革を喜びとお供に受け入れた人々です。小説家で言えば、大江健三郎氏や井上ひさし氏の世代です。
この世代の子どもたちが出会った、新しい日本、民主主義的な日本を象徴するものは、『新しい憲法のはなし』や『民主主義』といった活字印刷された、新しい日本社会の在り方を示す活字テクストでした。
様々な不十分さはあったにしろ、人権や民主主義、自由や平和について、その原理的な大切さにまで踏み込んで記述された、文字で書かれた民主主義的なテクストこそが、戦後民主主義の始まりにおいて、重要な役割を果たしたはずです。
しかし、ナカタさんには、識字能力がなかったために、こうした戦後日本社会の全体像としての記憶が一切「欠落」しているのです。ナカタさんの、年齢不詳の謙虚さと、それに支えられたイノセントな感触は、彼が識字能力を持っていないこと、戦後に書かれた、あらゆる文字テクストを読んでいなかったこと、その記憶を一切「欠落」させていることによってもたらされているのです。

いや言いたいことはよく分かるんだけど、一方で文芸批評においては反則技に近いのではないか。「あらゆる文字テクストをよんでいなかったこと」は、『新しい憲法のはなし』や『民主主義』を読んでいなかったこと(だけ)を意味するわけではないのであって、そこに還元してしまうと「記憶/忘却」の問題系が平板なものになってしまうのではないか。