丸山本読了

やっぱり藤田省三はイイ!と思わせる、丸山をめぐる岡本厚との「知識人について」と題された対談からの引用

岡本:なぜ、60年代以降、丸山さんの書くものはだめになったと思われますか。
藤田:それは偉くなったからだよ。やっぱり死物狂いで書かなければいけないんだよ。それをしないようになったら終わり。
戦後に書きはじめた知識人は、丸山真男も含めて臆病なんです。戦争中は書けなかったんだ。丸山真男が戦争中に書いたのは北畠親房だけ(「神皇正統記に現われたる政治観」)。ところが、これはという人は戦争中から書いているんだ。石母田正は1944年に『中世的世界の形成』を書いていた。もう戦争が終わるのが見えていたから、と。
花田清輝(作家・評論家・1909−79)は、右翼の影山正治とけんかして、弟子の右翼に呼び出されてブン殴られて血だらけになったけれど、意気揚々として帰ってきた。影山正治の「自伝」に、あれは敵ながらあっぱれだ、殴られながら堂々としていたと書いている。戦争中、1942年のことですよ。
中野重治(詩人・作家、1902-79)だって、多少、筆を加えているところや遠慮しているところはあるにしても、戦争中から言いたいことはわかるように書いているんだ。そうして戦後を待っているんだ。
戦後になって書きはじめたインテリというのは臆病なんですよ。臆病が悪いとはいわない、臆病を認める必要があるよね。蛮勇よりはいいよ。

今気付いたけど、僕は花田と中野が死んだ年に生まれてるんだな。もう一つおまけに藤田の鶴見俊輔

岡本:鶴見さんたちの『思想の科学』は60年代ですか。
藤田:いや、もっと前、戦後直後からです。
岡本:あれは、丸山さん的アカデミズムに対抗する思想として出てきたんですか。
藤田:いや、最初は入れようとしたんだ。最初の研究会は、東大法学部の川島武宣民法法社会学者、1909-92)さんの研究室でやっていた。あるとき鶴見俊輔を誹謗中傷する記事が週刊誌の片隅に載った。いまは書いた人間もわかっているけれどもね。その人は、おそらく自殺した。鶴見俊輔が一人一人を査問したんだ。川島武宣をも査問している。川島氏のほうが年ははるかに上なんだよ。川島さんは、それで怒って辞めちゃった。と同時に鶴見俊輔は、いまの大衆路線の方向へ大転換をした。その第一回目が『共同研究・転向』(1959−62)だ。ところが書くべき実力者がいなくて、ぼくを呼んだらしいんだ。
それでしばらくは、『思想の科学』ははやった。売れたしね。左翼に飽きたやつ、共産党に飽きたやつが、三派全学連にいくわけにもいかずに『思想の科学』になだれ込んだ。だから売れに売れたんだ。それで鼻高々になった。
鶴見俊輔には基準がないんだよ。おもしろいことが基準なんだ