保坂節

『途方に暮れて、人生論』読了。「教養の力」と題されたエッセーより身につまされる引用

学生時代の話に戻ろう。
最も偏差値が高いと言われている学科の教室の雰囲気の知的でなさに失望して、私はすぐに映画制作のサークルに入り、そこで自分の同類と出会った。文学部、法学部と学部はまちまちだったが、形而上学的な関心ばかりが心を占めている点で私たちは共通していた。「形而上学的な関心が心を占めている」と言うと聞こえはいいが、つまりは、雲を摑むようなことしか考えていなくて、「何もしない」ということだ。その映画制作のサークルに私たちは棲みつき、小説や音楽の話ばっかりしていて、とうとうそのサークルから「映画を作る」という雰囲気まで駆逐してしまった。

この「映画制作のサークル」は「あの映画制作のサークル」なわけで、そんな映画制作のサークルと比べてはいけないけれど、僕も「映画制作のサークル」に所属していた。忘れられないのが、入部したての僕が部室に入ると、先輩が壁にもたれかかって「ウィトゲンシュタイン全集」を、手持ち無沙汰に(ここがポイント)読んでいたことだ。(びっくりして全集のうちのどれを読んでいたかははっきり見ていなかったけれど、僕の中では「哲学探究」を読んでいたという偽の記憶が埋め込まれている。きっとそうだったに違いない)。そんなこんなで「形而上学的な関心ばかりが心を占めて」いたわけではないが、小説や音楽の話はよくしたし、僕は結局「映画を作る」という雰囲気そっちのけで、友人たちと「何もしていなかった」(友人たちは、僕とだべっていないときは「映画を作って」いたのに)。もちろんこの「何もしていなかった」は、現在の僕の「何もしていない」に繋がるのだが、その「何もしていない」にはもう少し居直っていたい。それが「教養の力」だ、とは強弁しないけれども。