没後10年

丸山眞男 (KAWADE道の手帖)
を読み始める。巻頭の小熊英二インタビューより

まず一点め。これは丸山だったか他の人が書いていたか忘れましたが、「書評の類でいちばんくだらないのは、『これこれの問題が書かれていない』という書評である」という言葉があったと記憶しています。つまりそういう書評は、著者がどういう問題にどう取りくもうとしたかを正面から受けとめて、それに応答しようとしたものではなく、単に自分の専門領域について書いていないじゃないか、と文句をつけているだけだというわけです。
それを敷衍していえば、たしかに丸山は植民地や在日の問題についてほとんど書いていませんが、それは彼が取りくもうとしたメインテーマではなかったからで、そのことを後から批判するのはジャンケンの後出しみたいなものです。例えば上野千鶴子さんを50年後の論者がとりあげて、「彼女は多くの著作を書いたが、地球環境問題にほとんど触れてない。彼女自身がクーラーを使い、自動車を運転していた『加害者』だったにもかかわらずである」とか批判するのは、きわめて容易なことでしょう。しかしそういう批判は、批判というに値するでしょうか。

うーん、丸山に対して「国民」の限界を指摘するのは、もちろん「後出しジャンケン」を繊細に避けねばならないのはその通りなんだけど、それを補強するために持ち出された仮定:上野千鶴子批判のロジックが、同型性を持ちかつその両者の批判がともに説得的でない、というわけだが、どうも90年代以降に行われた丸山批判と、ここでの上野千鶴子批判のたとえ話にはあまり同型性がないというか、ズレがあるというか。あまり批判への批判として機能してないような。丸山批判にしても当然批判を通じて、丸山を新たに読み直すという側面があるわけで、そのためには、やはり「アジア軽視」という批判は(ためにする愚は避けなければならないが)避けられないんじゃないか。