Twenty years of schoolin' and they put you on the day shift(B.Dylan)

現代思想「教育改革」特集読了。教育のネオリベ的編成について言えば、なぜ効率を旨とするはずなのに、「君が代・日の丸」強制に関しては、決して効率的とは言えないような執拗でかつ隠微な手法を用いて、教職員を追い込んでいくのだろうか。むろん「教育改革」の邪魔になる抵抗の芽を潰すことで、「効率的」な「教育改革」を進めやすい、というのはあるだろう。だけど、それだけではすまない、なにか不気味な強迫というのを感じる。だいたい、グローバリゼーションに適合的たらんという方向で進行している「教育改革」にとって、ファナティックな愛国心教育って足枷にしかならないような気がするんだけど。これに対する回答として、この「教育改革」を推進していくことで不断に生み出される「落ちこぼれ」を馴致するための「愛国心教育」だ、と言われる。なるほど、「『落ちこぼれ』はわが国の偉大さに無批判的に同一化して、我々にたてつかないようにしてほしい」というわけか。先の選挙でも、明らかに痛みを直撃するにもかかわらず低所得若年層が小泉支持に動いた、というわけだ。だが、ちょっと待って欲しい、そんなにクリアに分析できるほど低所得若年層は一枚岩なのか?しかも、彼ら(というか僕たち)を一枚岩に表象するのは、(むしろ)僕たちに同情的な研究者だったりもするわけで。ってこの状況はモロ「サバルタンは語ることができるか」じゃん。小泉大勝の原因を若年層低所得者に帰すということは、要は「お前らバカだから、自分の行為の帰結をハッキリ認識できていないんだろう」ってことでしょ。しかし、この語り口にも抵抗しなければならない。(ネオリベ的言説への抵抗は言わずもがな)僕たちの階層を槍玉に挙げるとき隠蔽されるのは、それよりも多くの「中流からの脱落」に怯える中年が小泉を支持しているということではないか。大体、不安を煽って不寛容に傾く類の書籍の主な購買層はこの層だし。若年層低所得層をスケープゴートにする前になされなければならないことはまだまだある。
サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)


現代思想2005年1月号に掲載されている、田崎英明「時間政治」より、

私の夢のひとつは、引退した非常勤教員の村を作ることだ。どこかに広い土地を借りてみんなで移り住み、自分たちが作った野菜や近隣の農家から分けてもらったものを新鮮なうちに食べて、のんびり生活をする。村の真ん中には、みんなの蔵書を集めて収蔵する図書館があり、また宿泊用の家には客を迎え入れて、村の住人たちが手料理と、それぞれの研究にかかわる講義でもってもてなす。そんな暮らしがしたい

もちろんユートピアではあるのだが、「柔軟性」を追求する現実の「大学」に比べてなんとも「可塑性」に満ちた計画であることか。しかし、こうした「夢」をはなから想像さえさせない方向に向かいつつある世界への抵抗の声を、それは弱々しいかもしれないが、各個個別にあげていこう。聞き取れないほどの弱い声を「聞き取れ!」と繰り返していく粘り強さとともに。