朝の続き

  • 無理矢理繋げてみる

要は「モダニズム」的なものって言うのは、意外にしつこく生き延びているってことをとりあえず指摘しておきたい。ポストモダン言説に馴染み、かつそれを弄してみたりする人っていうのは案外根っからの(≒ナチュラルボーンに)ポストモダニストではなくって、「モダニズム」的なものに先ず先例を受けて、それが「ポストモダン」的なものを受容するにあたっての基盤になっているという構造を指摘できるかもしれない(その一つのケースとして僕の事例を、朝詳しく書いたのだった)。もっと分かりやすく言うと、東浩紀ポストモダン状況における人間の動物化を鋭利に指摘できるが、東浩紀自体は動物ではない、ということだ。

  • 戦時下

大塚英志の話に移行すると、彼が異常にこだわる今が「戦時下」であるという認識を多分に僕も共有しているということだ。具体的に言うと、先の戦争において、それまでブリリアントな作品を発表していた人たちの「転向」、それも今と言う視点から事後的に見ると、かなりドンくさい転向をしてしまった人たちの処世を、なんとかして反復することだけ避けたい、という個人的な見解から来ているんだが。戦時下において言論戦では無敵を誇っても、その戦時体制が解除されれば、時流に乗っていた言説も、そのコンテストを剥がされ、後世には、いわば「裸のままで」その言説が批評される。僕はその「裸にされた」言説にまで責任を持ちたいから、この戦争状況の中で、それに棹差す振る舞いは避けたい。(しかし、この「戦時体制」が例外状態ではなく、常態であるとするならば、先に挙げた「戦時体制が解除されたら」という前提が意味をなさなくなるといえる。しかも、この「戦時体制」が常態である公算は極めて大きい。ではどうするか?「革命だよ!」とばかりに切断するのも一つの方法ではある。しかし僕は革命を遂行するような強い主体ではない。)

もうどんどん「モダンのクールダウン」から遠く離れてしまっているので、いったんここで中断することにする。