「モダンのクールダウン」の構造についての覚書(わがモダン・わが鎮魂)

まだ全然考えがまとまらないので、自由連想法風にメモ書きを列挙していく。

近代とポストモダンのあいだに「モダニズム」を挟んだのは説得的なように思える。この本自体の主たる対象は小説なわけだが、美術、音楽、建築etcを考えるとこの概念は外せない。(セザンヌからアヴァンギャルドバウハウスとか)

僕などは、中二的な恥ずかしさと共にしか「アヴァンギャルド」っていう言葉を思い出せない。(むしろウラ中二と言うべきか)思春期と切り離して考えられない。今の中学生も斜に構えて「マイナー」なものを追い求めたりするんだろうか?教室の片隅で「クラスのみんなは知らないだろうけど......。」このネット検索で一発の時代に。僕は79年生まれなのでどうもネット以前に中二って言う一番恥ずかしい時代を潜り抜けた最後の世代って言う印象が抜き難くある。(注意:安易に世代論に流れるな)でそれは置いといて、アヴァンギャルド、中学生にはブルトンなんてトンガって(注:当時の語彙、今はかなり周到な準備をしてから出ないとこの語彙を使えない)思えたわけで、書店で「前衛、前衛」とアヴァンギャルド、マイナーなものを捜しながら、間違って日本共産党の「前衛」を勘違いして買ってしまうという事件も起こるわけだ。さっきから中二、中二っていってるけどそれは「理念型」というもので、実際この事件は中一の時のものなんだが。で、当時の僕には「アヴァンギャルド」と言えばもっぱら芸術的前衛(のみ)を指し示していて、だからこそ共産党の「前衛」を「間違って」買ってしまったと、まさにたった今記述しているんだが、ここで(不当に?)忘却されているのは「政治的前衛」としての使用法のほうが、アヴァンギャルドに関しては、「芸術的前衛」よりも先行しているという事実だ。僕が花田清輝を読むのはもうちょっと後になってからだ。

  • 対位法的に

で、中二的に「アヴァンギャルド」に魅せられながら、にも関わらず読んでいたのはべたに安部公房とかだったりするわけで(新潮文庫は小さな書店でも揃っているし、それに安い。まだまだ簡単にハードカバーで小説を買えなかった)、実はポストモダン小説を読むのはもうちょっと後。音楽はボアダムズとか聴いてたので、そっちはポストモダンなのに、文学はまだまだモダニズム。この「文学の遅れ」は僕固有の症例なのか、それとも(「文学」に固有の遅れななのか、映画っていう形式にずいぶん遅れてヌーヴォー・ロマンが現れたことを想起すると、あながち僕固有の遅れというだけではないかもしれない)あ、でも音楽もポストモダン的なものを聴きつつも、モダニズムに遡行していいったんだ。そう、訳もわからずクセナキスやケージを聞き始めたんだ。(無論、耳に馴染むのは、グラスやライヒの方だったんだが)近代/ポストモダンの間の「モダニズム」って90年代にもまだまだ根を張ってたんだよって話なんだけど、これ「モダンのクールダウン」に全然繋がっていかないような。

  • 軌道修正

この本でいう「リアリズム」の『現実世界』を森敦の「倍率1.2倍」のリアリズムに、「モダニズム」の『現実世界』を「倍率1倍」のリアリズム言い変えることも可能だろう。そうすると何が言えるのか?
ってところで仕事に行く時間だ。東/永井の脱構築をめぐる差異とか、大塚の「戦時下」の話とか、まだまだ考えることがたくさんあるが、とりあえず論旨が乱れたままupする