講義の次はゼミの時間

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

を読む。「はじめに」にこうある

教室だけでしか勉強しない学生は「優秀」には見えるかもしれない。しかし、教室の外で勉強しなくなった学生たちは、「教養」がないように見えてしまう。一方、教室に失望した学生たちは、どこでも勉強しなくなる。これが現状である以上、僕たち大学教師はまず教室で学生の「期待」にきちんと応えなければならない。いい加減な授業をしている場合ではないのである。その上で、僕は「このくらいの本を自分で探して読んでいなければ、大学生とは言えないぞ」と言っては、しばしば授業中に学生を挑発する。勉強は教室の外でもするものだと、教えてやらなければならなくなったのである。それが、大学の「いま」なのだ。

大学に在籍していた時はほとんど授業に出なかった僕には、最近の学生がどうやら授業に出席するのが俄かには信じられないが、どうやら授業以外では勉強しないらしいということも、「時代なのか」という感慨がある。そういう風潮を嘆くのではなく、その変化を認めた上での「教育のあり方」はいかにあるべきか?この本は、かなり克明に自らのゼミの運営を開示している。ゼミを通じて「ふつうの」学生が鍛え上げられる様がよく分かる。でもね、なんか、ほんの少しの違和感も感じるのも事実。しかし、この違和感の抱き方は恐らく間違っていて、それはここに出てくる学生の前途が明るそうで、対照的に僕が行き詰っていて、かつ開き直っている(開き直るしかな)ことからも明らかだろう。一つの分かれ目はここにある、

彼は自分のレポートがあるレベルに達していないことがよくわかっていたのである。だから、そういうレポートを提出することが、自分に許せなかったのだ。恥をかきたくなかったのに違いない。まだ、プライドが邪魔をしているのだと、僕にはわかった。だから、ここで許してはいけない。自分のプライドと折り合いをつけて、「この程度のレポート」し書けない自分を自分として受け入れられない限り、長島は何度でも同じことを繰り返すだろう。僕は何度でも「ダメだ!」と怒鳴りつけて、ついに諦めさせた。僕は心の中で「そのプライドと折り合いを付けてから出直して来い!そうでないと、お前は一生不幸になるぞ!」と叫んでいた

僕は出直せるんだろうか、と引用していて慄然とさせる文章である。違和感なんて(分不相応に)感じている場合ではなかった。でもね、ちょっと言いたいのは、不幸もそれなりに楽しいよ、ってことです。「どこまで逃げ切れるかやってやろうじゃないの」おお勇ましい。でも面と向かっては多分言えない。