欲望を断念するな

ロラン・バルト講義集成「いかにしてともに生きるか」を読み始める・といっても、まだ第1回の1977年1月12日と19日の講義ノートしか読んでない。ノート自体の断片性にかこつけて、興味を引いた記述の断片を思うまま拾い上げてみる。

禁欲に対する意志を失い、もはや禁欲に心的エネルギーを備給することができなくなってしまった(≠信仰を失った)修道士の感情、状態。これは信仰の喪失ではなく、心的エネルギーの撤退である。抑鬱の状態:物思い、気だるさ、悲しさ、倦怠、意気阻喪。暮らし(信仰生活)は単調で、目的がなく、苦痛に満ち無益であるように思えてくる。禁欲の理想がかげり、引力を失う。カッシアヌス(『戒律』第10章):「<......>ギリシア人たちが<アケーディア>と呼んだところの、そしてわれわれならば倦怠ないしは心の苦しみと呼ぶところの(<タエディウム・シーウェ・アンキシエタース・コルディス>)。東方教会の修道生活史にしばしば登場する現象。(カッシアヌス:イタリア人、360−335年。エジプトで暮らす。マルセイユに二つの修道院を創設。)

という記述で始まる『アケーディア』(虚脱状態)と銘打たれたノート。信仰を失ったわけではないのに、禁欲に対する意志を失った修道士、この不活性の極みはどういうことなのだろうか?先を進む。

アセディと「共生」の関係?歴史的にいってとりわけ陰修士の生活に結びついた概念。孤独な禁欲状態からの苦痛に満ちた撤退→陰修士の俗への回帰。共住修道生活:おそらく幾分は、修道士を強力な共同体的構造のうちに取り込むことにより、アセディと戦う手段として考え出されたもの。アセディ(現代的):他者との関係、つまり「他の連中とともに生きいること」の内にもはや入り込めず、しかしながら孤独の内にも没入できない状態。→いかなる点から見てもゴミ、しかもゴミのための場所すらなし。ゴミ箱なきゴミ。

そうだった、この講義は「いかにしてともに生きるか」だった。それはアセディと戦うことでもあるが、修道生活ではまだその対処法があったものの、アセディ(現代的)として記述される事態において「ともに生きること」は可能なのだろうか。いかなる点から見てもゴミ=汚辱に塗れた生において。それよりも気になるのが「他の連中とともに生きいること」の内にもはや入り込めず、しかしながら孤独の内にも没入できない状態。」って所。これって、いま僕が立っている場所を情け容赦なく描いているような。(たとえば僕は、なんとなく性欲から撤退しつつある今日この頃なんだが、これは禁欲というよりもむしろ「しないですめば有難いのですが」的な側面が強い。=信仰の喪失ではなく、心的エネルギーの撤退。とか内省しつつも、この内省しつつある「僕」という位置が曲者で、実はそう言明することで単に、イマココニアル性欲をなかったことにする、あるいはないことにしたい、ということに過ぎないのではないかとも思える。テスト氏のエロティックなスケッチ画のことを想起せよ。不活性なあり方、このけだるさのさなかに、「テスト氏のスケッチ画」のようなものが僕に、暴力的に回帰するのか、(まるで他人事のようにだが)興味がある。だがなぜ他人事のようになのか。答えは出ないのか、出したくないのか。