憲法選読了

やっと読み終えた。憲法制定権力を考える上で思い起こすのが高校3年の時の学園祭をめぐるゴタゴタだ。僕が通っていた高校では、学園祭は行事としてあらかじめ日程が組まれていたわけではなく、建前として、有志が学園祭をぜひ行いたいという自発的な要求を掲げ、「なぜ学園祭を行うのか」というマニフェストを起草し、それを自治会にはかり、その案件が、各学年、各学級に降りてきて、そのマニフェストが(当時はマニフェストとは言ってなかったけど)果たして学園祭を行う根拠として妥当かを議論し、再び自治会に上がり、代議員の多数決によって初めてその年に学園祭を行うか否かが決まるという形式をとっていた。もちろん、各年度学園祭が必ずしも行われないこともありうるという形式を取ってはいたが、慣例として毎年学園祭は行われていた。ここがミソで、僕が属する3年の有志も(形式はそうであるとは言え)まさか行われないことはあるまいと思っていたのだろうが、かなり穴だらけのマニフェストを作ってしまい、期限までに修正されたマニフェストが承認されなかったために、その年は学園祭が行われなかった。僕たちが最終学年だったために、「高校時代の記念」が失われてしまうと嘆く同級生が多かったが、そうした言説に対して違和感を持ったことは確かだ。それは、祝祭を通じてその年毎に創出される「私たち」という(フィクションくさいとは言え)行為(ここら辺が憲法を通じ、かつそれによってのみ創出される国民という構造とパラレルだと思われる)を否定し、単に今まで続いてきた伝統だから(今年も行われる)と言う蓋然性の問題に矮小化されていたからだ。僕自身はこの形式が、生徒の自主性を重んじている振りをしつつ、(暗黙の了解として)教官が許す範囲内でという約束事が見え透いていて、より左のほうから、「こんな学園祭などやめてしまえ」と攻撃していた。ちょうど90年代の半ばあたりだったが、なにか学校における戦後民主主義の崩壊と言える事態だったかもしれない。僕たちは、そろそろ生徒の自主性というフィクションさえになえきれなくありつつあったのだ。これを昨今の憲法論議に重ね合わせてみること。


で個人的な感慨を離れて、9条擁護の歴史的パースペクティブを把握するには、

占領と平和―“戦後”という経験

占領と平和―“戦後”という経験

が読み応えがある。あともちろん「民主と愛国」もね。