マルクスの使いみち

「へタレ系中流インテリのためのマルクス入門」と銘打っているものの巻末で吉原直毅が

「人文系へタレ中流インテリ」への「癒しの場」としての「マルクス」は容赦なく叩き壊してみせるが、「そこに山があるから登ろうとする人々」に対しては、一方でその対象の峰の高さと、にもかかわらずそれを制覇したときの眺めの壮大さについての、一種のイメージ・トレーニングの一環になってくれれば、とは思う。

と書いているように、「人文系下流非インテリ」たる僕、さらには「物象化論」やら「労働力商品の無理」とかのタームに馴染んできた僕には、ここでの議論を受け入れるのが、やや寂しい気がするものの、これを受け入れないと、マルクスを巡る言説ってさらに先細っていくのだろうとも思わせる。それくらい説き伏せられてるんだ、僕は。(こういう倒置を矢作俊彦ってよくするよね)。自己所有論をもっと突き詰めていきたいと思う。ロック→ノージックの線だけでなく、マルクスの自己所有論も視野におさめて、って壮大だなあ。出来んのか?

マルクスの使いみち

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