ニートビク

大航海58号ニート特集。しかし労働社会学者はいない。だからエッセイ気分で読んでみる。

かなり個人的な感慨をここに披露すれば、僕は『それから』の主人公の代助の遠い後輩に当たるのですが、高等教育は大衆化しきっているので、
中流を踏み外して、「人文系下流インテリのようなもの」にしかなれません。今このブログを見られている方は納得されるでしょうが、
毎日せっせと読書(はっきり行って労働)に励んでいるのですが、これを生産に結び付けようとはしていません。無為の労働ですね。ただ、

で指摘していますが「ニート批判派」≒「ニート自己責任派」も、「ニート擁護派」≒「ニート問題=社会構造の問題派」も、
実は真っ当な労働観を自明な前提にしている事が見出されます。しかし僕自身内観してみれば、こちらが近い。

で、ベンヤミンのパサージュ論を引いているのを孫引きすると、

そうした遊歩者の見開いた目、そばだてた耳は、群衆が見にやって来るものとはまったく別のものを捜しているのだ(略)
あのとても素朴に注意を向けている顔つきをもとに、画家は夢見ていた表情を描くことだろう。他の人の耳にはなんでもない
物音が、音楽家の耳を打ち、ある和音を思い付かせるだろう。夢想にふけった思索家、哲学者にとってさえ、そうした
外の喧騒は有益で、嵐が海原を掻き混ぜるように、その諸観念を混ぜ合わせ揺さぶることだろう。(略)天才たちの大部分も
偉大な遊歩者だったのだ。ただし、勤勉で実り豊かな遊歩者だったのである。(略)芸術家や詩人が一番仕事に没頭しているのは、
彼が一番暇そうに見えるときのことが多い。

なにも僕が偉大だと言っているのではなく逆で、世紀を隔てて遊歩者は劣化し続けているが、なお遊歩者的でありうる
一つの事例として僕があるようにさえ思える。規則正しい勤務は無理だし、かといって何か作品を残すきもさらさら無い。
そんな無為な人間が生き延びることが出来る現代/日本というコンテキストにさえ自覚的だからタチが悪い。

上のような無為っぷりを発揮する僕は、しかし本論分で書かれるような寝入り体験を、大学時代のある時期一年ほど
していたことがある。アルバイトはしていたから厳密には引きこもりではないんですが、
バイトを終えると酒を飲み眠るだけの日々を繰り返していた。外に出ることも無く。下宿から近いバイトだったので、
そこを超えては外に出て行かなかった。その間大学にはほとんど行かず、家で寝転びながら天井を見ていたりしていた。
引きこもりというと自動的に心の闇という単語を結び付けようとする人が多いが、むしろ逆で、僕の実感としては、
明晰としか言いようの無い、言わば「光」的な経験であったように思う。ちょっと神秘的な言い方になるから、
気を付けないといけないが、「世俗的な光」体験とでも言い換えようか。興奮も高揚も無いなだらかな光。

あと、小田晋三浦雅士の対談の無茶苦茶さが素敵。