今日読んだ本

早起きすると眠い。
1.継続中
(1)『科学技術社会論の技法』
地球温暖化と不確実性」宗像慎太郎・塚原東吾
(2)『大学新入生に薦める101冊の本』
2.読み始めた本
(1)『キャラクター小説の作り方』
帰りの電車で。なんか懐かしい。
(2)『たわいなさの考古学』
読んでいる途中で思いっきり寝る。引き際が肝心だ。今日はノー・カウント
3.読了本
『負け組の哲学』
直接本書と関係ないことを少々。よく「思考停止に陥らないために」なんてなフレーズを見たり聞いたりして、特に引っかかりも感じず読み流したり聞き流したりするわけだけれども、よくよく考えてみたら思考停止ってすごい状態よ。だって思考が停止してるんだもの。思考の停止を文字通りに思考できるか?ってここでブランショのしかるべき部分の引用をしたらいいんだろうけど、面倒だからしない。あら、それこそ思考停止じゃない?っていいのよ。
ところで、ある人を指して「思考停止に陥っている」と評するときは、その人がまったく思考していないことを糾弾しているのではなく、(思考しているはずなのに)あたかも思考していない場合と同じ結果に行き着いている(ように思える)事態を示しているのだろう。これには、誰が、どのように、誰を「思考停止」と評するか?という権力の問題もあるけど、それはひとまず置いておいて、「考えているのに考えていないように(端から)見える」という状態は(誰かに「思考停止だ」といわれる局面でなくとも)、別に例外状態ってわけではなく、きわめて日常的な事態である。(=「例外状態の常態化」ではなくって、要するに日常のたいがいはぼーっとしてるってことです)。そうすると日常の大半というのもまた「生きているのか死んでいるのかどっちでもいい状態」、しかしそれを現に生きているし、(それぐらいは生きろよな)。
ええと、書いていて分からなくなってきましたが、要するに「思考停止」を文字通り思考する、これは一つの極限を構成し、「死に淫している」のだといえるだろう。で、僕(たち)の大した起伏のない、端からは何も考えていないと見做される(=「じゃあ死んでいるみたいなものだよね、君」)は、その意味では「死に瀕して」はいるのだが、そこでその退屈に耐えられずに非日常の方へ(「死に淫する」方へ)、しかも「生の充実」を図るためにそちらへ向かうのはテッテ的に馬鹿げたことだ。退屈をシノぐことの難しさ、ね。むしろ、退屈を享受するための技法を僕(たち)は発明しないとね。(なんだよ、結局日常の称揚かよ!って自分で書いていても気恥ずかしいけど、ここを放棄するとロクな結果が待ち受けていない気がするぞ)
キャラクター小説の作り方 (角川文庫)たわいなさの考古学―コンディヤックを読む「負け組」の哲学