返す刀に耐えられるか?

『晴れのち曇りときどき読書』読了。バルト、ジャン・ルノワールブルトンの本を評する時の力のこもり方とかいいね。一番読みごたえのあったオースター『消失』への書評より

ポール・オースターが二十代に書き続け、そして或る時点で完全に放棄してしまった詩作品を通読してみての印象はまずこの厳しさと徒労感である。これではとてもじゃないが長くはやっていけまいな、といった何か身につまされるような思いが同情とともにこみ上げてくるのだ。

と始めて

実際、この耐忍は長くは続かない。詩人として行き詰った後にオースターが書き出した小説については言うべき言葉を持ち合わせていない。「ニューヨークのカフカ」だと。「マンハッタンのブランショ」だと。今日の人々が小説に求めているのは『シティ・オヴ・グラス』程度のものなのだろう。民度の問題というべきか。こうして底の割れた寓話を書き出すことでオースターの人生が楽に、幸せにとは言わないまでも、なったことは間違いないわけで、それはそれとして尊重されるべき彼の乾坤一擲の選択ではあったのだ。「冷ややかな薔薇が棘を息にあけわたす」。この苦しい息づかいで砂の地に立ちつくすことを選ぶか。それともちゃちな「物語」に「息をあけわたす」ことの安息を選ぶか。一つ確かなのは、「輝ける沈黙めざして」の舞踏がとにかく生を甚しく消耗させるということだ。他人事ではない。それにしても、第三の途はないのだろうか。

と終わる。この厳しい書評を書くことはそのまま松浦寿輝の詩・小説への問いかけにもなるのだ。(「他人事ではない」)。書評を書くことに対する倫理がここにはある。(そして僕には...)。
余談ながらこの本、やや誤植が多い。「ジャック・デルダ」や「モールス・ブランショ」などなど。これらがほとんど同一の、しかしまったく別人ならそれはそれで面白いんだけども。