クロソウスキーの返答(という名の長大なメモ書き)

『聖なる陰謀』の続き。神の死をどう捉えるか、これはすごく厄介な問題なわけだが、クロソウスキーの以下の指摘はかなり重要。

時間が経験できるのは、その対立命題である永遠によってのみであるということが正しいならば、時間の中へ跳躍あるいは転落しようという意志は、人が永遠の中にいることを前提としていることのなる。私は、この跳躍が不可能であると主張する。というのは、私たちが時間の中にいるのは明らかであり、私たちがこの世界にいる時から転落はなされているからだ。転落とは人間の第一条件であり、人間とは定義上からして転落そのものである。ところで、時間の中に跳躍することができるのは、永遠の中にいながら、時間の否定的な経験をする者だけである。しかし、永遠の中にいる者は、充溢を所有するだろうが、そうならば、彼は空虚の中に跳躍することを考えることなどあるだろうか。私たちが必然的に生きている転落を強制によって行うことは、時間の弁証法を逆向きに行うことであり、時間を最後の項として提示することだ。それは時間の弁証法を純粋かつ単純に抹消し、時間の対立命題である永遠を破棄するためである。その結果、バタイユにおける神の死は、もはや内在性ではなくなるようなある内在性へと行き着くことになるだろう。というのも、いかなる超越的な流れも、もはや内在性をその外部に投げ出すことはないからだ。すなわち、神の死は、純粋で単純な直接性の中にある生、不満足や精神的な苦悩によって否定されることをやめるや否や、ニヒリズムの性格を呈するように私には思われる生、へと行き着く。ニーチェにおける神の死は、彼にとって神があらゆる超越的な美徳を失い、純粋で単純な直接性のレベルまで落ちた、ということを意味していた。そこからディオニュソスの誕生が生じ、また、瞬間を深めることが、および瞬間を永遠回帰させることによって直接的な必然性を解放することが生じてくる。神が死んだ時に深淵の中への転落として経験される瞬間は、高揚として、また、永遠回帰の感覚の中での充溢の所有として生きられる。
どんなものも仮象に過ぎず、時間だけが現実であるならば、永遠回帰という考えは仮象から脱出しようという意志を表している。もろもろのものは、永遠回帰の中で、永遠回帰への欲望の中で、現実の強度を獲得する。というわけで、瞬間の重要性は、永遠回帰を伴う場合と伴わない場合では、決して同じではないということになる。瞬間の新たな重みは、まずは、神の死によって開かれた虚無の中へと消え去るが、この重みは、永遠回帰がそこで知覚されることで、または、永遠がそこで啓示されることで、瞬間に対して保証される。さもなくば、瞬間は、それに続くものなどの中に混ざり合ってしまうだろう。したがって、私が「この瞬間は唯一のものである。それは再び戻ってくることはない」と言うとき、私はすでに瞬間が包摂しているなにか永遠なものを認めることになる。瞬間は時間の中にいる私に回帰してくることはないが、一方、瞬間は永遠性の、または、時間の永遠なる円環のヴィジョンである。瞬間の中に運び去られるのは、むしろ私の方であり、そのためには、私は時間の外に出るか、あるいは、永遠回帰が私をこの瞬間へと連れて行く必要があるだろう。

じっくり咀嚼させて下さい。