対抗贈与

友人にタケノコを素材にしたおつまみをいただいたのでそのお返し。えんどう豆1.5キロ。へへ、ゆるいポトラッチですよ。こんな対談でのこんな発言を意識しつつ(『現代思想』2004年11月号:生存の争い に収録の立岩真也×小泉義之の対談。この対談は人文書院の『生命の臨界』にも入ってます)。

小泉:(前略)あのアーレントでさえ『人間の条件』では、農業の功徳ということを言っていて、農業は必ず余剰生産物を産むということを指摘している。あのアリストテレスでさえ、自給自足は家政ではなくポリスではじめて成立するとしている。個人の自給自足の生産なんてあり得ない。個人労働、個人所有、個人消費などといったお話は嘘っぱちです。自足した個人から始める近代の社会理論はその出発点から間違っている。誰もが知っていることですが、一定の期間に大根はどっと取れちゃう。一人で食えるわけがない。協業に参加した人でも食いきれるはずがない。じゃあ、そんな農業生産がどうして始まったのか。明らかに他者のために始まっている。生産はそもそも余剰生産物を他者のために作るために始まっている。じゃあ、その余剰生産物を何に利用したのか。すぐに思いつくのは養育・育児です。そうしないと社会は存続しませんから。(後略)

えんどう豆、取れすぎちゃって食べきれないという話です。
生命の臨界―争点としての生命