おとなこども

カラフルメリィでオハヨ―いつもの軽い致命傷の朝
読了。再演は見に行ってない。かわりに読む。この全面的にこども的なとっちらかりの背後に、にもかかわらず大人でしかないことを認めるほかはない諦念(そう大人であることはやはり諦念なのだ)が漂い、しかもその諦念が批評足りえている。もちろん子どもの頃は大人はもっとこう「大人大人している」と思っていたが、なってみると大人は全然大人のようには思えない。しかし、そんな大人になりきれなさのなかにも、どうしても「大人だ」としか言いようのない質があり、そうした形でしか僕(たち)は大人であることができない。しかしその程度には大人だ、ということでもある。