前半は肯けるが、後半はちょっと

学問の力  NTT出版ライブラリーレゾナント023
読了。肯けるところ

たとえば、最近も話題になっていましたが、中沢新一の『アースダイバー』(講談社)という本がありますが、縄文時代の地図をひもといてみると、その海岸線の突端になっているところに現在では神社が建っていたり、聖地だったところにテレビ塔が建っていたりするという話をしています。これは、正しいとか間違っているという判断を超えた議論で、まったく根拠のないほら話ともいえるし、人によっては大変な洞察だということにもなるでしょう。どうしてそうなっているのかを論理的に説明することはできないですし、資料的に検討することもできませんから、ただ「へえ」というしかない。(略)
ただ、そういう話を聞くことによって、現在われわれが住んでいる世界をみる目のなかに、別のバーチャルな思考からの光が当たる、(略)このようなちょっとした知的な芸、知的な楽しみのようなものは必要なのです。ポスト・モダンとはもともとそんなもので、知識とはちょっとした知的な芸であって、世界を動かせるとか、革命を起こせるとか、社会を進歩させるというようなものではない、ということです。

しかし、

本当にポスト・モダニストであることは実は大変難しいのです。知識というものにかかわるわれわれのようなものは、やはり、もう少し偉そうなことをいいたくなるんです。中沢新一の真意がどこにあるのかはわかりませんが、彼のような話をすると、それに続けて、ユングのように、「われわれのなかには日本人としての集団的無意識が埋め込まれている」というような話をしたくなってくる。それを、そこまで行かない手前で引き止めるのは大変難しいことなのです。

(しかし、「手前で引き止める」ことの難しさは、かなりの部分佐伯さんにも当てはまる部分があるのではないか、という疑念はある。アメリカニズム批判から一挙にリベラリズム批判を敢行するに当たっての対案が、現在において「共同体」が再帰的であるほか仕方がない、ということを多分誰よりも冷徹に認識しているにもかかわらず、往々にして「所与の」共同体であるかのように語ってしまっていることだ。しかし、この「あえて」は(僕の余談ではあるが)、ほとんど「あえて」としては機能していないのではないか)。


ポスト・モダニストであり続けることの難しさ、その2

たとえば、柄谷行人浅田彰が「丸山真男をもう一度読み直してみよう」というようなことをいったりする。カントがしばしば引き合いにだされる。マルクスを読み直そうという人がでてくる。ポスト・モダンの代表格であったデリダもーデリダがやろうとしていることは、それなりにわからなくはないんですがー、やはり左翼主義へと戻っていってしまいます。デリダ主義者というべき高橋哲哉は『靖国問題』(ちくま新書)でブレイクしましたが、きわめてオーソドックスな左翼的進歩主義を唱えている。結局、彼らも決して「思想」を放棄できなかったということですね。
かくして、本当の意味で「思想」を放棄できる人がいれば、それはそれでなかなかにたいしたものだという気がします。ポスト・モダンや現代思想は、いわば隠れたかたちで「思想」を温存させていて、しかし、「大きな物語は終わった」といった手前、それを正面から打ち出すことができない。

引用後半部は、能動的ニヒリズムの問題として積極的に取りあげることもできるし、「動物化」している方が強いってことなのね、とも読める。しかし、ここまで状況が読める人の処方箋がなぜああなのか、が僕にはいまだによく分からない。うう。この半分ほど肯けるという不思議な感覚が、僕に佐伯啓思を(違和感を感じさせつつ)読ませるのだろうし、左派・右派の座標軸の微調整を迫るのであろう。