『愛と暴力の現代思想』読書ノート

「貧しい者の部屋にはしばしば、凶悪なブツがある」という、「恐怖力」や、望んでもいないのに勝手に侵入してくるディズニー・グッズをめぐる「プーさんとどきゅん」もいいけど、ここで反戦落書きと公衆便所に関する若干のコメントを。
反戦落書きについて、杉並区都市整備部公園緑地課長は次のように言う

今回の落書きの犯人は、名前まで聞いておりませんが、杉並区に住む若い男性であることを警察官から聞いて知りました。
犯人に対しては、大変強い憤りを感じており、杉並区としては、公衆便所の外壁の再塗装までに要する費用について、犯人に支払いを請求するつもりでおります。

「われわれ」の「きれいな公衆便所」が、犯人によって「汚された」ため、それを再び「きれいに」するために「犯人」に費用を請求する。しかしすぐ考えて分かることだが、そもそもからして公衆便所は「きれいな」ものなのだろうか。僕たちが糞尿をたらすその場所が。あるいは、件の公園緑地課長の考えはこういうところまで行き着くのでは?「われわれのような(普通な市民の出す)糞や尿は必ずしも汚くはないが、『ある種の』人の糞や尿は汚い」。(傍証:落書きの犯人は、取調べで何度も「こんな政治的なことにこれからも関わっていたら人生が駄目になるから、真面目に更正しなさい」と言われる。)要するに、「きれいな」公衆便所という擬制を維持するためには、「政治的なことにかかわる」人や、障害者、不法滞在者、ホームレス、異常性愛者は「汚い糞尿」であり、排除していくというのが今日における「公共性」の方向ではないか。もちろん当たり前のことの確認なのだが排除される彼らの糞尿(のみ)が臭いのではなく、糞尿それ自体、公園緑地課長や「良識ある市民」の糞尿にしてからが端的に臭いのである。この己の臭さへの鈍感さは、

商店街等特定地域では、街路に面したマンションにおける布団等の物干しが美観を損ねることが危惧されます。マンション管理規約上で規制しているところもあると思いますが、条例として、より強い規制をしてもいいと思います。

という発言とも地続きであろう。「美観」という「公共性」は住民が清潔な布団で眠るという当たり前の「生活」よりも優先するし、そもそも「お前ら」は汚い布団にくるまってるのがお似合いだ、とすら言っているようだ。こういう都市細民に関する攻撃は、圧倒的に「われわれ」が「きれいな」ポジションに立っているという(おそらくは)誤認から来るのだけども、この「誤認」が「誤認」とされず自明視されている現状にどう抗っていくか、それが問題なわけである。
愛と暴力の現代思想


追記
はてなで日記を書いている人の多くが本好きだと思うけれど、あなたが書店でお目当ての本を探せるのも僕たち「非正規雇用者」が、「一般的知性」をフル活用した結果なのであって(しかも、そのわりと複雑な労働も「単純労働」と、容易にみなされてしまう。もちろん完璧な棚構成が実現出来ているとはとても胸を張れないが、それでもより良き棚を目指して労働している)、そのことを頭の隅に入れておいて損はないと思う。書店より遡って、取次ぎでの労働に関しては、小説だけど、
秒速10センチの越冬
とかね。