クールの誕生 するそばから簒奪

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)読了。

だがバルトが記すには、『神話作用』で彼が実践した神話を脱神話化する読解法はいまでは広く浸透しているし、実は一般文化に同化吸収されてもいる。それゆえ、「ある(生活の、思考の、消費の)形式がもつブルジョワ的またはプチブルジョワ的性格を告発しない学生はいまやひとりもいない。言い換えれば、神話研究のエンドクサ〔社会通念〕ができてしまったのだ。告発、つまり脱迷信化(ないし神話化)が、それ自体ディスクールとなり、文の資料体となり、教理問答的な発話内容となったのだ」。バルトの『神話作用』の方法がいかに素早く文化の威力に同化吸収されてしまったか、またその文化の威力が全面的に神話生産に依拠しているかは、本書第三章で見たとおりである。

たとえば、映画でも音楽でも「クール」(って恥ずかしいな)なものが誕生したそばから『ENGINE』etcの「クラスマガジン」(って恥ずかしいな)に取りあげられ微妙にズレた理解をされつつ、むしろそちらの方が公式的なイデオロギー(そんな大したものではないけど、であるがゆえにむしろ、そちらの理解が自明視されるに至る)になっちゃったりする。
クズ共の営為がいつのまにか、「ブルジョワ」の体のいいオモチャにされたりする。(たとえ『ENGINE』読者が地方の歯医者とかに過ぎなくてもこの際彼らをブルジョワと名指そう。)もちろんバルトを含む「セオリー」だってあっというまに取り込まれちゃう。これに対して距離を取るために後期のテクスト(『明るい部屋』とか)のような書かれ方をしていく、という話。それすらも、取り込まれていくというとあまりに悲観的だが、

「作家たちにとりよくあるように、バルトの「弟子」なるものはおらず、ただエピゴーネン〔物真似〕たちがいるだけ」なのだ。

そう、単に方法としてバルトを切り詰めて利用したとしても、バルトにはそこから漏れ出す過剰なものがあるということか。