この厄介な部分

『精霊の王』読了。結局ここでしょ、

ところが日本の王権である天皇にあっては、律令制という合理的なシステムが導入されるようになってから以降もずっと、自然の内奥との深い結びつきを主張する「王の熊の身体」あるいは金春禅竹的な言い方をすれば「王の宿神=翁的身体」を、さまざまな宗教儀礼や神話的な観念をとおして、維持しつづけようとしてきた。とくに古代的な天皇の復活をめざした後醍醐天皇による建武の中興にあたっては、おもに密教の道具立てを使って、自然の内奥から「超越的主権」を取り出してくる異形の王として天皇、という存在の大規模な演出まで試みられたのである(網野善彦『異形の王権』が主題にしていたのはこの問題である)。

であるならば、

正統なる「主権者」を、現実の権力者たちの間を廻って探し求めるのは無駄なことだ。そうした「主権者」たちは、国家が出現して以来、地上を支配し続けてきたが、彼らのすべてが偽物なのだ。世界をなりたたせている「力の源泉」の秘密を知っている者は、そこにはいない。歴史のゴミ捨て場、記憶の埋葬場にこそ、それはいまもいる。

が、王権との共犯性から切断されていると、果たして言えるかどうか。いや、僕も「歴史のゴミ捨て場」に「力の源泉」を知る者がいることを熱烈に希求しているんだが、「日本」の歴史を大雑把に振り返ってみても、王権への恭順から逃れられた事例がどれほどあるのか、(僕たちにしてもそうだ)ってことを考えると気が重くなる。(しかし希望は持ち続けたい、となるとどうすればいいのか)