源ちゃんをめぐってイロイロ

『文藝』高橋源一郎特集。内田樹との対談は、
ワンコイン悦楽堂
での対談もいっしょに読めばいい。で、この68年的な「他者と死者」をめぐる対談に説得されつつも、石川忠司の『「ニッポンの小説」注釈』によって、その「他者と死者」を思いっきり脱臼させるとよい。可能性はこっちの読解にあるんじゃないか。

まず「私」を中心的に設定し、次に「他者」を設定し好き勝手に支配する、あの透明で中立的な「私」の暴力的語法は、前の大戦から何かと複雑で世知辛い現在にまで時代が下ると、今度は「『私』の語法」批判という逆説的なかたち、「真摯」で「倫理」的な能書きというかたちをとって復活しているとしか思えないわけなのだ。とまれ、思想家や文学者の思考によって庶民みたいな、ど阿呆で最低の連中の存在が圧殺されるのだけはどうしても我慢ならない

で、「ど阿呆で最低の連中」、つまり「生者」と「死者」の境界を画定できないものの小説として「うわさのベーコン」の読解へと至る。これがなかなかイイ。


で、終わろうと思ったんだけど、この号に載っている鹿島田真希の「嫁入り前」がすごくよいので、冒頭を引用しておく、(筆耕にできることといえばそれくらいのものだ)

母親はため息をついた。そして粉末のプロテインを牛乳で溶いたダイエット・ドリンクをテーブルに置いて、ぴったりと胸に近づける。母親の唇の上には白い跡がついている。牛乳の跡が、と私が注意すると、あなたはなにもわかっていない、と母親が二度目のため息をついたので、自分だって牛乳の跡がついていることをわかってないくせに、と私は思った。
本当にあなたってなにもわかっていないわね、と今度は叫ぶので、ダイエットのことならすっかりわかっているわよ、と私は応じた。
わかってないわよ!母親はほとんどむきになっている。あなた、例えばその長い髪をばっさり切って、風通しをよくしたことがある?母親は私に問い質す。私は幼い頃に母親におちんちんを切り取られた時の、風通しの良さを覚えていたし、今ではおちんちんがないことが当たり前で、昔のような風通しのよさを感じないことを謙虚に反省しもしていたので、要するにお母さんは私に初心に帰れと言いたいのね、幼い頃の私に、と言ってやった。

もう、どうやったらこういう風に書き進めていけるんだろう?ずっとこの強度と緊密さを保って小説を閉じちゃうんだからオソロシイ。『ナンバーワン・コンストラクション』なんて、地上に天国すら到来させちゃったもんね。瞬間風速的に『ポロポロ』を超えちゃったんじゃないかと思ったわけです。とベタボメしてみる。