声を奪われる

やっぱり東松照明はいいなあ、あらためてカバーに見惚れつつ、
占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ
を読み始める。今日は、イントロダクション「焼跡と金網」、次いで第一章「無人地帯への道」を。第一章では、小島信夫の「アメリカン・スクール」と大城立裕の「カクテル・パーティ」が取りあげられている。面白いと思える指摘

こうしたミチ子の境界横断性は、名前の表記における書法の混淆ーカタカナの「ミチ」と漢字の「子」−によっても示される。漢字が当てられていない「ミチ」について、ここでは「道」の可能性を考えておきたい(最も一般的というわけではないだろうが)。そもそも物語の主な出来事は日本(の県庁)とアメリカ(ン・スクール)をつなぐ道の途上で起こる。この道はそれ自身では特定の場所ではなく、むしろ文化的緩衝地帯(no-man's land)として描かれている。破壊し尽くされた戦後の焼跡からアメリカン・スクールの田園的光景へと続く道は、時間的にも空間的にも戦時から戦後への架橋のメタファーとなる。この道を旅するのに最的な準備をした日本人たちが、おそらくアメリ支配下の戦後時代の成功者となるだろう。

で、そのあとこの道を旅する準備として、日本人教師たちの履いている靴の差異に注目するのが、「うまいなあ」と思う。伊佐は「履き古した軍靴を不承不承廃棄して、サイズの合わない礼装用の革靴」を借りる。


「カクテル・パーティ」論のなかの

「カクテル・パーティ」はアメリカ占領下の沖縄のアイデンティティの問題を男性の視点から追究するが、論じてきたように、「被害者」という範疇は徹底的に女性への性的暴力という修辞を通じて確立される。被害者性は抽象的な「女性」身体を必要とし、この女性身体への同一化を通じてのみ男性は被害者性に接近しうるが、それは結局、男性の世界から彼を切り離すことになる(象徴的な男性領域である法領域からの主人公の排除を去勢とみなす精神分析的解釈について、このテクストは雄弁な証拠となっているといえよう)。にもかかわらず、被害者性はいわば免罪を約束するものである。戦時と戦後を分離する境界線を確保しようとーそれとともに戦争での罪を軽減しようとーしても不可能である恐れがある場合には、被害者性という「女性」領域でさえ、男性にとって誘惑的に見えてくるのであろう。

男性が、自らを被害者(=女性)の立場に重ね合わせて抵抗する時、一方でその女性そのものは依然として名を与えられないまま留め置かれている。これをどう見るか。