僕にできるのは引用することだけ

脱現実
1.非現実化すること:私はファンタスムの名のもとに現実を拒絶する。周囲の一切は現実的なものとの関係で価値を変える。例:恋する者は、恋するイメージ、つまり彼にとっての現実的なものとの関係で(妨げとなる)世界を非現実化する。この意味では、世界を非現実化するとは、恋の運命、恋のユートピアを実現することである。
2.脱現実化すること:現実的なものを失う点では同じだが、いかなる代替物がその喪失を埋めにくることもない。私はもはや想像的なもののうちにいるのですらなく、夢も見ない(恋する相手のことさえ夢見ない)
すべては凝固し、石化し、色を失う。すなわち、代価不可能となる。非現実化する:神経症になること≠脱現実化する:狂人になること。恋する者はその二つのあいだを行き来する。<クセーニテイア>もおそらくはまた:あるときは非現実(神への愛に対する心的エネルギーの備給)、あるときは脱現実、あらゆる祖国(=父祖の国)(あるいは「母なる国」の不在)
ゆえに<クセーニテイア>:いかなる補償的備給も伴わない、内的祖国喪失にまで達しうる。

理論的問題:イディオリトミックな「共生」のユートピアは社会的ユートピアではない。ところが、プラトンからフーリエまで、書物の上のあらゆるユートピアは社会的なものだった:権力を組織する理想的な方法の探究。私としては内的ユートピアの不在をつねづね残念に思ってきたし、そうしたものを書きたいと思ってきた:主体と感情、象徴とのあいだの良き関係を実現し、予言する理想的(幸福な)方法。ところがこれは厳密な意味でのユートピアとは言えない。これは単にーあるいはそれを超えて、過剰にー「至高善」の実現の探求でしかない。ここでは:「至高善」にいかに住まうかの問題。ところが、「至高善」−その表現ーは、主体化のプロセスにおける主体のあらゆる広がり、深さを、つまりは主体の全個人史を結集するものである。そのことを明らかにできるのはただエクリチュールのみーあるいはこういったほうがよければ、小説的行為(ないしは小説)のみである。極度の主観性を受け入れることができるのはエクリチュールのみだ、なぜならエクリチュールには表現の間接性と主体の真実のあいだに調和があるからーパロールの領域では(ゆえに、講義においては)不可能な調和、こちらはどうあがこうと、つねに直接的、かつ演劇的なものだから。『恋愛のディスクール』についての本はおそらく、セミネールよりも内容の乏しいものかもしれないが、しかし私は本のほうがより真実であると考えている。→ゆえにここでは、イディオリトミックな「善」について、客観的らしく思われる原理をいくつか示すにとどめよう
(略)ここで、私が「繊細さ」の名のもとに(現在の世界ではいささか挑発的な名前)少しずつ定義づけようと試みている価値にふたたび突き当たる。繊細さとは、距離と思いやり、関係における重苦しさのなさ、しかもその関係を包む生き生きとした熱気。その原則は:他者、他人たちを操らない、操作しない。イメージ(一方の、他方の)を積極的に捨て去る、関係についての想像的なものを育みうる一切を回避する。=厳密な意味でのユートピア、なぜなら「至高善」の形態であるから。