今日読んだ本

1.『思想の科学五十年』の続き
この座談会を読んでいて、「そういえば昔買った思想の科学がまだ残っているんじゃないか」と思い、開かずの部屋となっている物置を探索。見つかったのは94年の3月号、4月号、6月号のみ。(ちなみにそれぞれ特集は「家事の宇宙」、「国語ではない日本語」、「セクシャリティ(注:ママ)の愉しみ」)。あれ、もっとあったはずなのに。まさに『読んだ本はどこへ行ったか』(物質的な意味で)。94年といえば中三か高一のどっちかで(面倒なので指折り数えることはしない)、当然カルスタなんて言葉も知らなかった訳だけど、「国語ではない日本語」いいね。当時もちょっと影響を受けたけど、読み返すとカルスタを名乗らずしてカルスタ以外の何ものでもないところに好感を持つ。森まゆみも、おじいちゃん、おばあちゃんの横文字問題について書いてるし。(当時は「谷根千」と書いてなんて読むのか悩んだりもしていた)。「セクシャリティ(ママ)の愉しみ」特集は、多分山崎邦紀浜野佐知の映画を見始めるきかっけになっていた。

あー、でもこの時期読んでいた雑誌って全然家に残ってないなあ。もう少し前の『朝日ジャーナル』終刊号(僕がはじめて読んだ『朝ジャ』である。)も無いし。(これは終刊号のあまりのテンションの低さに怒って捨てたのだと思う。取っておけばよかった)。『週刊金曜日』すら創刊当初は(薄さと値段の高さに納得しかねながら)しばらく購入していたし。(これも今は無い)。とくればまだ『Ronza』だったあの雑誌も一冊も残ってないし。(あの非自民に浮き足立っていたころの記事を無性に読み返したくなっているのに)。ツルシ体制の『SPA!』も無ければ(『ゴー宣』1,2巻あたりはホント面白かったね)、『噂の真相』のほとんどの号や『GON!』も無い。(何の気なしにちり紙交換に出したのを覚えている)。無論これらの雑誌をそれぞれ毎号買っていたわけではない。(毎号買っていた雑誌もあるけど)。立ち読みで済ました週、月も多い。だからこそ買った号に思いいれもあるんだけど(ウソ、多分物置に入って、ソコニモハヤナイことを確認して思い入れが復活した、というのが正しい。)、雑誌の保存の難しさを改めて感じる。(最近あんまり雑誌を買っていないけど、それって一方で雑誌がつまらなくなっているってのもあるけど、僕の探索能力が衰えているということでもある)。
って書いていて『nu』の2号が出たことを知る。面白そうだなあ。
http://nununununu.net/
雑誌の思い出に思いのほか時間がかかってしまった。以下手短に。(ズル)
2.『カントの哲学』
読了。これは使える。ただ後半の『判断力批判』にかんしての記述はやや圧縮され過ぎか。
3.『三島由紀夫文学論集』Ⅲ
読了。三島大好きって訳でもないし、かといって嫌いなわけでもない。強いて言えば「無関係」というのが三島を読むときの基本的な態度になっている。いつか「無関係」でなくなる日が到来するのだろうか。
4.『フーコー・コレクション』2
かりそめの読了。「作者とは何か」講演の質疑応答で「あなた明らかに読めてないでしょ」という質問がなされているのを読んでなぜか安心する。
5.『水声通信』
ようやく軽井沢に。芳沢泰久が、後藤明生『石尊行』を取りあげていて、その「天皇小説ではなさ」が類まれな「天皇小説」になりえているという話。そしてそのすぐあとの高遠弘美の例によっての旧仮名による随筆(としか言いようがない)。今日はここまで。この2編が読めただけで満足する。
6.『どこにもない国』
エリック・マコーマックの『地下室の査察』を読む。東京創元社の文庫にも手が伸びそうだ。
7.『犬のしっぽを撫でながら』
この記述は泣けます

海燕新人文学賞をもらって一年ぐらいたったある日の夜、突然、面識のない編集者から電話をもらった。
『完璧な病室』という短篇集を一冊出したきりで、そのうえ倉敷の田舎に住んでいたため、当時私にとって面識があるといえる編集者は、ほとんどいなかった。そんな私の所へ電話をくれるなんて、どういうことだろうと思うだけで緊張するのに、そんなことはお構いなしに、その編集者Y氏は猛烈な勢いで、今の小説への不満や若い書き手への期待や自分の理想についてまくしたて、私を圧倒してしまった。
そして最後にY氏は、「『マリ・クレール』で連載小説をやりましょう」と言った。彼のエネルギーに飲み込まれてしまい、何が何だかよく分からない間に、私は「はい」と返事してしまったのだった。

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)どこにもない国―現代アメリカ幻想小説集