nousとon

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代読了。後書きの『アクティング・アウト(現勢化)』(邦訳仮題 新評論近刊)や、『愛・自己愛・友愛 9.11から4.21へ』(邦訳仮題 新評論近刊)という記述が気になりつつ。それぞれ特異な「わたし」によって成り立つnousの共同体(=スティグレールも批判的にランシエールについて触れている)が、「ハイパーインダストリアル時代)には、画一化されたonへと切り詰められてしまう、と。しかし本書第2章「あたかも『われわれ』が欠けているかのように あるいは、武器をアラン・レネの『みんなその歌を知っている』からいかに求めるか」での分析にもあるように、僕(たち)が特異性から特殊性のフェーズに転落していたとしても(僕たちが「必死に」他の人たちとの「差異」を際立たせようとしても、その差異自体がどこかで見たようなお膳立てされた(しかも心地よく)差異に過ぎない。もちろんお膳立てするのは『資本』、だと)、そこから一気に「失われた」nousを回復しようとしても、そうは上手くいかないだろう。『みんなその歌を知っている』の「みんな」がonなんだけど、その落ちたonという形態でありつつ、というかそこへ落ちることを経由することによってくらいしか、この時代に対する抵抗の身振りというのは獲得できないのではないか。