現代思想4月号

「教育改革特集」を読む。とりあえず赤田圭亮、岡崎勝という現役教員の論文まで。インインメツメツですよ、ホント。大学も、「首都大学」ってTokyo Metropolitan Universityって言ってるけど、metropolitanよりCapitalっていう直訳調のほうが、「資本」の論理に忠実な大学の運営っぷりにふさわしいような現状だし。東大も駒場寮に続いて学館ももうなくなったんでしょ。もちろん早稲田の「逮捕」問題とか、大学・空間の再編成もオソロシイよね。そんな大学からは、

しかしながらぼくはそのようには楽観しきれません。まず何より東は『情報自由論』などで、こうした「動物化」した人々を「動員」する「環境管理型」権力が今日洗練されてきていることを指摘します。それはただ単に人々を一方的に管理し誘導するだけのものではありません。インターネットにおける個人情報管理にせよ、ストリートにおける監視システムにせよ、それらは支配層、エリートが大衆を管理するために導入するものでもありますが、また反面それらは大衆自身が望んだ結果でもあります。ネットで安心して買い物をするため、子供たちを「危ない奴」から守るために、監視とセキュリティの強化を普通の人々自身が望んでいます。システムを管理するエリートたちは、そうした人々のニーズに応えただけだ、と言ったら、言いすぎでしょうか。
そもそもここで簡単に「エリート」呼ばわりしてしまった人々とは、実際のところはどのような連中なのでしょうか。彼らはせいぜいのところ官僚だの、マーケッターだの、エンジニアだの、いわゆる「テクノクラート」でしかないのではないでしょうか。少々学歴が高く、少々特殊な訓練を積み、少しばかり責任の重い地位についてしまっただけの、意外と普通と人々のことではないでしょうか。いったい彼らと「大衆」のあいだに、どれほどの違いがあるというのでしょうか。(『モダンのクールダウン』)

で言うところの「エリート」しか生み出さないんじゃ......かといってハイスクール1968グロテスクな教養 (ちくま新書(539))な教養に僕たちが今さら戻れるわけでもない。大衆化された大学を出た僕たち(僕は中退っていう形で「出た」けど)が「グロテスク」じゃない形で教養を保っていくにはどうしたらいいんだろう?というところは上からの「教育改革」言説が無視するところだよね。この高等教育のガタガタぷりを逆に「資本」が利用するわけで......。