メモ書き的抜書き

距離
「共生」、とりわけイディオリトミックなそれは、共に住む主体相互間の距離にかかわる倫理(ないしは物理学)をともなう。これは恐るべき難問ーおそらくは「きょうせいの」の、それゆえこの講義の、根本問題である。私たちはこの問題を断片的に、部分的なテーマをとおし、間接的にしか扱わない。ここでは簡潔に、問題のー形態のみ提示しておく(解決ではいささかなもない):身体間の距離(「共生」における)。
問題はアポリアのかたちで述べることができる。そしてこのアポリアは連鎖をなす。:
1.他人のー他者のー身体によって私は混乱させられる。欲望し、エネルギーを、そしてまた欲望の欠如を感じ、私を消耗させる欲望の戦略のうちにはまっていく。
2.この混乱状態から、それを消滅させてくれるような状態を帰納し、幻想する:<ヘーシュキア>:欲望の不安、苦しみと結びつかない空虚、心の落ち着き。
3.そこで私は<ヘーシュキア>に到達するための規則を定める。それらの規則は一般に、欲望の引き金となる他人の身体を遠ざけるものである。
4.しかし他者、他人に対する欲望を殺すことで、私は生きることへの欲望をも殺してしまう。他者の身体によってもはや混乱させられず、あるいは他者に決して触れることができないとしたら、生きていて何になろう?アポリアの完結。

あとこんなのも、

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なぜこんな言葉を選んだかについては、すぐに説明しよう。
「共生」のファン田住むは個々の主体(私たちの各自)が抱きうるものだ。その際、自分の知っている人間のなかからパートナーを選んで「共生」のファンタスムをこしらえようとする。ところがそうやってファンタスムを作りあげる際、興味深いのは、だれを選ぶかではなく、だれを排除するかということなのだ。なぜなら排除は必ずしも感情の赴くがままなされるわけではない。その基準を分析するのが難しい場合しばしばあり。
多くの共同体:パラドクス(スポンジのたとえの目的)。排除されるものは、排除されたという性格を保ったまま統合される。それはパリアの矛盾した身分である:排除されかつ統合された、屑として統合された存在。「統合された屑」を持たない共同体はおそらくないだろう。現代のの世界を見よ:多種多様な社会のタイプ:内に屑を取り込んでいないような社会はなし。あらゆる社会は自らの屑を大切に抱え込み、外に出すまいとする。国際社会学には、内部に取り込まれた屑、保存された廃棄物の理論が必要だろう(ただし:パリアに関する偽善やイデオロギー的正当化のバリエーション、その結果パリアはもはやそうしたものとみなされなくなる)。

あきらかに横着してるんだが「いかにしてともに生きるか」引用だけで済ましてしまう。しかも結構場当たり的な。まだもう少し読み続けなければ。