黒古先生のブログ読んだり。いろいろあるんだけど。
2009年1月17日の記事で、

僕も無力だが、このような文章を書いている今も、パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの攻撃は続いている。死者も1000人を超えた。このような事態に対して「憤り」を感じ、そのことを裡に潜めた作品を書くことこそ、現代作家の使命なのではないだろうか。「炭坑のカナリア」(カート・ボネガット)こそ作家の役割だと思っている僕にしてみれば、この頃の新人作家たちには歯がゆさしか感じられない。これも年齢のせいだろうか。

と書いてるのだが、
2008年9月14日のセンセの記事に対する同9月15日付けの匿名さんのコメントでこのように書かれている。

カート・ヴォネガットが文学者(創作者としての)の役割は「炭鉱のカナリア」だと言っているのが実に的を射ていると思います。文学者にできるのは社会に於ける微かな腐臭に悶絶し微かな歪みに狂乱することで人々に警告を発することです。炭鉱に漂っている瘴気の成分を分析したり原因を究明することはその任ではありません。だからこそ学とは関係のない芸術としての文芸の――社会批評上の――意味があるのです。文学者(創作者としての)の文学者としての(社会批評上の)役割は「私は社会批評に一言ある」などと賢しらぶってご託宣を垂れるなどというもんじゃないのです。「カナリア」としての過敏性を失わないこと、これに尽きます。

さて、黒古先生はご自分を省みられていかがでしょうか。政治・社会批評に必要な素養や訓練はこのブログを拝見する私が拝見する限りではあまり期待させていただけそうにないようです。では黒古先生は「カナリア」の過敏性をお持ちでしょうか? 私の見るところ小谷野先生には―― 多分に暴走気味ですが――この過敏性があります(瘴気の成分分析や原因究明にはあまり適性がおありではないように見受けられますが)。この一連のコメント炎上の様を見るにつけても、今のところ黒古先生にはどうもそうした「過敏性」は――大変残念ながら率直に申し上げてその片鱗すら――伺えません。

この「過敏性」は殆ど天与の才能の問題ですから、無いのであれば今さら身に着けようとしてもムダでしょう(私も自身を省みてそう思います)。むろん黒古先生は創作としての文学に携わっているわけではないのでそれでも良いと思います。しかし、だとすればご自分の「文学」にとって本質的だとされている「社会批評性」というものにどうやって向き合うおつもりなのですか? 事実に照らして考える前に既に結論が決まってしまっているような「シャカイヒヒョー」に「社会批評性」が少しでもあるとお思いなのですか? 20年以上前に遡る汚染米の問題を小泉改革――参入規制をほぼ撤廃した食糧法改正は2004年です――に結び付けて怪しまない先生の態度(そしてそれを指摘されても自分の過ちを認めずにただ嵐が過ぎるのをやり過ごそうとする態度)の「ヒヒョー」性が如何なるものなのかもう一度考えてご覧になると良いのではないかと思います。

や、別に「お前には欠けてるよ」って言われた当のものを、また別の人に期待する、ってのはそれでどうってわけではないんだけど、もし私が黒古センセだったら(恥ずかしくって)、そのたとえを使うのを控えただろうな、とか。


1月17日の記事に対する新浜さんのコメントもメモしておこう

この喩えは、普通の人間には感じられない微量の毒ガスでぶっ倒れるカナリアの過敏性の話でしょう。ガザで起きている道徳的悪は別に通常人でも感じ取れるものです(だからといって黒古先生も私もそれについて何かするわけでもないしできるわけでもないのですがこれは作家も同じですね)。いずれにせよカナリアの出番じゃないです。

むしろ、昨今の作家が黒古先生に面白くないとしたら、彼らがカナリアとして黒古先生には――文学の形を取って示されてもなお――気が付けない微量の毒に悶絶しているということはないのですか? もちろん、黒古先生自身が自分は「カナリア」なので自分に気がつけない「微量の毒」なんかあるわけがないというのなら、それはそれで正しいかどうかはともかく筋は通るのですが、もしかして本当にそう思われていたりするのですか?