寓意

ひどい便秘である。だが、便秘・であることを他者に証し立てすることはいかにして可能なのだろうか。なにしろ物的証拠がないのであり、またないからこその便秘であるのだから。
下痢の事を考えればわかりやすいかもしれない。私たちは言う、
「いやー、ひどい下痢でさ。形もなかったよ」
だが、それは修辞なのであって、明確な輪郭が描けないにしても最小限の形は「ある」し、形があれば記録することもできる。(記録するかどうかは別にして)
では、ワタシがまさに排泄を試みそれが失敗する一連の動作を目の当たりにしてもらう、とするとどうか。便秘・であることがそれによって証明されるのではないか。
しかし、その場で出ないことはまさに「その場限り」のこと(たまたま)ではないか? という疑念が見物人から出てくるかも知れず、それに対して「そうではない、ワタシには出ないという状況が継続している」と、何を根拠にして訴えればよいのだろうか。また、見られていることから来る緊張感から「出ない」のではないか、とも言われるだろうし。
一度だけではなく、始終監視をされることで便秘であることがようやく証明できるだろうか。つまり、排便を試みようとする時だけでなく、ワタシの生活のすべてを監視されることによって。しかし、たかが「ワタシが便秘である」ことを納得してもらうのに、なぜワタシはそのようなハンデ戦を戦わねばならないのだろうか。しかも、その長期的な監視の中で、ある瞬間に出てしまったら... ワタシの状態がその時点で「便秘・である」から「便秘・であった」に変わってしまいやしないだろうか。いや、もっと悪いことに、
「なんだ、便秘じゃないじゃん(お前は嘘をついている、いた)」
ということにも...
などと考えてしまうくらいにワタシの頭には糞便が詰まっているのですが、どうしたらよいでしょうか?