設計するエリートにはなれない(し、なりたくもないが)、さりとて施されるままであるには聡明に過ぎる者たち(宮台氏にとって点の辛いオタク的な「ダメ意識」と重なるあり方)、彼ら(というか僕ら、と言った方がしっくりきてしまう)は、後期近代(あるいはポストモダン。お好きな方をどうぞ)において膨大な数にのぼるが、そのような者たちもいずれは二極分解(というか事実上エリート足り得ないのだから、設計される側への移行)してしまうのだろうか? なんだか小農民みたいなポジションだなあ、と思いつつ、しかし(一発逆転めくが)その「ダメ意識」に留まることにおいて何かポジティブなモノに反転する契機が... ある、というかなくはない(イキナリ弱気に)のではないか...
1.読み始めた本
(1)『思想の身体 徳の巻』
(2)『水声通信』16号 特集:ジョン・ケージ
2.読了本
(1)『赤の誘惑』
(2)『スピノザ エチカ抄』
(3)『幸福論』
(4)『八日目の蝉』
(5)『神菜、頭をよくしてあげよう』
思想の身体 徳の巻

水声通信 no.16(2007年3月号) 特集 ジョン・ケージ

水声通信 no.16(2007年3月号) 特集 ジョン・ケージ