やりなれないこと(それがたとえ歩くということにせよ)は疲れる

ふだん自転車で通る道をたまたま歩いていくと、(自転車に乗っている時の感覚が残っているため)、歩きはじめたときは(歩いているのに)風景があたかも自転車に乗っているときのように過ぎているように感じてしまう。
が、実際はすぐに歩いたままの過ぎ方で風景は現れる。面白いのは(いや、本人にとっては面白くないのだが)「今」歩きつつ現れる風景よりも、ふだん自転車に乗っているときの風景の方が「ホント」のような気がして、「今」の歩きを「ホント」に近づけようとするのだが、そうしようとすればするほど(当然歩みは遅いので)「ホント」の知覚が遠ざかってしまう。すると、その「遅れ」を取り戻そうと絶望的な努力を(よせばいいのに)することになるが、(それによって)歩き方が変になる。その歩き方が変になる過程で、「では歩くってなんなんだろう」とこだわってしまうと、ますますうまく歩けなくなる。(だって普段は「今歩いている」なんててんで意識せずに歩いているわけだから)
意識しちゃダメだ、と思いそれで意識しないようになるぐらいだったら苦労はないわけで、「意識しちゃダメだ」という意識がのぼる時点でもう泥沼に。後ろから他人(たち)に追い抜かれていこうものならますます
「この人たちは『自然』に歩けていいなあ」
と思うも、
1.(実は)この人たちも歩きながら「歩くってどういうことか」の自明性を問わざるを得ない地点まで下降しつつ、(しかし)失調せずに歩けているのかもしれない
とか、
2.(実は)この人たちは当たり前のように歩いているように見えて(やっぱり)当たり前のように歩いている。が、僕視点では当たり前に歩けていない僕をも、当たり前に歩いていると見ているのではないか、で他人たちが僕を当たり前に歩いていると見なしているのであれば、それで僕の問題は消える。(あるいはそれでも問題は残る?)
とか
3.(実は)この人たちは当たり前のように歩いているように見えて(実は)当たり前のようには歩けていない。かえって僕のほうを見て
「コイツ歩くということがなんでもないよ、という風に歩きやがって」
と思われているかもしれないとか
4.(実は)この人たちは当たり前のように歩いているように見えて(実は)当たり前のようには歩けていない。で同様(ないしは違った歩けなさという風に)僕の歩みを当たり前ではない歩き方で歩いていると見ているかもしれない。それで世界がまわるのならそれはそれで...
5.(以下略)
と雑念の嵐が襲う。いや、歩くって疲れますな。


今日読んだ本
家に帰ってからもしばらくしんどかった...
1.読み始めた本
(1)『ドガ ダンス デッサン』
(2)『イスラーム帝国のジハード』
2.読了本
(1)『海の仙人』
(2)『長崎乱楽坂』
(3)『パリでひとりぼっち』
ドガ ダンス デッサンイスラーム帝国のジハード (興亡の世界史)海の仙人 (新潮文庫)長崎乱楽坂 (新潮文庫)パリでひとりぼっち