今日読んだ本

1.読み始めた本
(1)『思想としての<共和国>』
ドゥブレ論考「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」
89年に書かれたということに注意を促しつつ、それでも
フランス=共和主義/アメリカ=デモクラット
っていう二分法では漏れるものも多い。少なくとも、共和主義/リベラリズム/民主主義の三つ組で考えていきたいところ。
そして、これは多分共和主義者のもっともダメな点なのだが、強い主体を要求しすぎで、(ドゥブレが定義するところの)デモクラットは私領域に撤退しているというのだが、やはり公領域が主で私領域が従でかつ階層を成すというのはマズイと思うのだ。
ここから漏れてしまう人は共和主義から排除されてしまうのだろうか?

文字の読めない〔無教養な人間〕の共和国というものはありえない。無知な人間は自由ではありえないし、法の起草に参加することもできないからである。それに対して、たとえば人口の半数が文字を読むことのできないデモクラシーというものは考えられないこともない。

文明化の使命が野蛮に...ってことになってはしないか?(このあとに続くドゥブレと三浦信孝の対話における発言にもその側面は濃い)
もちろん共和主義から学ぶところも多いのですが...
(2)『物理世界のなかの心』
キム、読む前から気が重かったわけだが講義がもとなので読みやすい。「非還元的物理主義」:落とし所として魅力的なんであるが(なにしろ都合がいい)、キッチリ吟味されとりやす。
(3)『黒沢清の映画術』
これ読み出すと止まらない。
(4)『叶えられた祈り』
熱いうちに読む。
2.継続中
(1)『戦後世相の経験史』
「ライフストーリー的想像力の射程と限界」倉石一郎
(2)『サザエさんの<昭和>』
樋口恵子いわく、保守的な人はサザエさん的な家族のあり方を「失われつつある
、ありうべき」家族像として称揚するのだが、その時サザエさんが「嫁」でないという事実を忘却している、と。この指摘は重要で、これは保守派にとって嬉しくないであろう波平、マスオの父/夫としての強くなさにつながるから。といいつつこれって思いっきり家制度を温存したままでの女権拡張なわけで、サザエさんの状態がさして良いものとも思えないが、それでもこの側面を無視してサザエさん一家を「期待される家族像」として持ち上げるのも無理がある。
3.読了本
『黒いヴィーナス ジョセフィン・ベイカー』
これは面白い。わくわくする。前述のドゥブレにも関わるのだが、植民地の問題がフランスの共和主義につきまとうわけじゃない?そんなことを考えながら読むわけだが(人間動物園の話とか)、一方で(小声ですが)エキゾティスムに心惹かれてしまうのも正直なところ。どこまで許されるのか考えてみます。


ところでこの本にはひもしおりがついているのだが、青土社の本ってしおりがついてなくって近刊案内をしおり代わりに使うんじゃなかったっけか。
思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために物理世界のなかの心―心身問題と心的因果 (双書 現代哲学)黒沢清の映画術叶えられた祈り (新潮文庫)黒いヴィーナス ジョセフィン・ベイカー―狂瀾の1920年代、パリ