書き終わることのない下書き
『「80年代地下文化論」講義』を読み始める。ほぼ半分(しか)読んでいないけど、キモはここ
「これ、かっこいいね」って言ったとき、それだけじゃすごく浅い感じがするんだけど、でもこれを、もっと深く考えていくと、そうした感覚の共有そのものが、いったいなんであるのかという疑問になるでしょう。きわめて時代の表層でしかないかもしれない、その感覚をあらためて問い直したとき、はじめてわかることがあるはずです。
で、ピテカンを軸に「かっこいい」としか言えない「80年代地下文化」を論じていくのだが、「かっこいい」ものを列挙していけばいくほど、その「かっこよさ」はなにゆえ?という事が確定できなくなる。(しかし感覚的には「わかる」)。このアポリアが、現在「80年代地下文化」を正当に継承することの難しさになっていると思えるが...
ここで補助線を一つ。この「かっこよさ」がねじれたものであるということを知ると、理解はしやすくなる。フツーにかっこよいもの(=主流文化と定置しよう)がおそらくあって、そしてそれにノレない層が「かっこよさ」を見出したのが「80年代地下文化」だった、と。このメカニズムを、まったく80年代じゃないけど、早川義夫の『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』を使って理解すると、
ごくフツーの人の「かっこいいこと」=カコワルイ
と感じてしまう人は、
一見「フツーのかっこよさ」から外れるもの(≒かっこ悪いもの)=かっこいい
の図式に反転することが出来る。
つまり『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』は『かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう』に反転可能だ。「80年代地下文化」の「かっこよさ」が一筋縄でいかないのは、この「かっこ悪さ」をも含めて「かっこいい」のであり、(というよりもストレートに「かっこよい」ものはダサいとすら言える)、「主流」(これはまず想定されるものであり、そしてその後に、それは実在するように見えるもの)からいかにズレるかに(多分に)かけられた情熱(なき「情熱」)を理解することができるだろう。
分かりやすい例:ごくフツーの人がボン・ジョヴィ(ここにはなんでも代入可)を聞いて、「ああかっこいいなあ」と思っているのだろう、と想定し、かつそれのノレない人のための文化。こう書くと他ならぬ自意識の問題になるが、この「他とは違う私」を抜きにしては「マイナー文化」はおそらく語れないだろう。そして、この「他とは違う私」が80年代にいっぱい出てきた(しかし「主流文化」を凌ぐほど多数ではない:ここ重要、つまり「他とは違う私」たちがお互いを認知できるほどには「多数」だが、あくまで「他とは違う」点においては「少数」)といえるだろう。それには経済も関わっているはずだ。
まあ、それは本書でも使用される「文化的ヘゲモニー」の問題だと言えるが、それは
http://www.youtube.com/watch?v=mkpE0KLPaq0
こうしたことがことが不可能になったということと、こうした「68年」に伴走した文化を起点とした「マイナー正史」が一方で出来つつあり、その資源を利用できるようになった、ということもある。(先行文化の「編集」、何を取り何を捨てるかで魅せられるようになったことも大きい)。←ここらへんは思いつきのさらに思いつき。
宿題:
(1)『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』戦略は、松尾スズキの『かっこ悪いことは、なんてかっこ悪いんだろう』を前にしてなお生き延びることが出来るか?という問題。これは80年代問題に(錯綜した形で)90年代問題が関わる。
(2)僕なんかはセゾン文化/森ビル文化には決定的な断絶を見てしまうが、セゾン文化→森ビルと一直線上の事態と見なしている人が少なくない、ということをどう見るか。(ちなみに僕が大学生の頃にWAVEとシネヴィヴァンは閉館した。なので二つの文化の狭間に位置しているとの思いが強い)
(3)シニシズムの問題。「わかっててやる」をめぐる80年代/00年代の同一性と差異(北田暁大参照)があるが、実はこの「シニシズム」自体が「寸止め」ではないかという疑念が僕にはある。ヒドいシニシズムに思えるようなものも、まだまだ中途半端で、行き着くところまでいけよ、と。(諸君、シニシストたるにはもう一歩の努力を...)その行き着くところ=破滅を見てみたいと思ったり、思わなかったり。(もっともこれは80年代からはズレるが)。『カントの哲学』by池田雄一からの真逆の筋道。