悩ましさ

昨日ちょっと触れた、「いま、哲学とは何か」所収宮崎裕助「ヴァニシング・メディエーターとしての哲学」より引用

逆に、アカデミックな意味での哲学に熱意を失った哲学研究者が、みずからの専門的な知識を活かしつつも、その制約を越えて、「私の哲学」を公にして啓蒙書や入門書を数多く出し続けた結果、世間で特権的に「哲学者」として認知されたり、みずからその呼称を引き受けたりするようなこともある。気の利いた文章を書ける才能や、商才をたくましく発揮できる器用さがあれば、哲学は誰にでも関係があるものだから、そのような哲学(書)のマーケットは、他の学問分野より広く開拓することができるだろう。(実際開拓されてもいる)。しかしそのとき「哲学者」は、「哲学」というラベルがついた商品で商売をしているビジネスマン、もっと言えば、タレントや芸人の一種でしかない。そこには、哲学に多少とも通じていると出版人にみなされた者、あるいは、すでに哲学にかんして(大学等の)制度的保証を得ている者たちが、みずから書いた著作が売れたことで「哲学者」とみなされるようになった、というごく資本主義的な事実以外には、とくに何も彼らを「哲学者」たらしめるものはないように思われる。
アカデミズム内部で専門の研究と教育に勤しむうちに「哲学者」という呼称に留保を付すようになった職業的「哲学研究者」、誰もがそうでありうるとともに限りなくその内実が曖昧になった一般的「哲学者」、両者のあいだで出版や講演の啓蒙活動に励む商業的「哲学者」−実のところ、私は、これらのいずれもが「哲学者」であることを否定するつもりはない。さらに、現代において「哲学者」とは、結局のところ、そうした存在以上のものではない、とも考えている。「哲学」(という語)へのためらいは、まさにそうした事情に由来するように思われる。もちろんこれらはすべて現代社会の現象レベルで「哲学者」と呼ばれているものにすぎず、本来の意味での「哲学者」ではない、そうした現象のうちには「哲学の本質」は見出されない、とひとは考えることができる(実際、だからこそ「本来の哲学」とは「いま」何なのかを新たに提示することが本稿に期待されいるのだろう)。しかし私の認識は、いま哲学とは、このような哲学者像の類型のうちにあっさり取り込まれており、本質に問いかけ直すことで再開すべきひとつの名としては、あまりに濫用され、あまりに手垢に塗れた言葉となってしまった、というものである。

これ、あたっているだけに耳が痛い。「一般的哲学者」は哲学を大雑把に語りがちだし、「哲学研究者」は狭い範囲に厳密に取り組む。結局いまいちばん読者に対して「誠実」(これもカギカッコつき)なのは、そのあいだを行く人々だけど、それは「哲学者」なのか?(逆に言うと「哲学者」でしかないとも言えるわけで)というか、これらのカギカッコを外せない(外すべきではないとも言える)という事実を受け入れつつ思考するしかないのか。

人道的介入

「いま平和とは」(岩波新書最上敏樹読了。もとになったのが、「NHK人間講座」のテキストということもあって読みやすい。やはり一番関心のあるのは「人道的介入」なんだけど、これやっぱり軽々しく答えを僕は出せない。とはいえ、「決断」はなされねばならないし......「介入される」地域と「介入すらされない」地域があり、それを決定する審級はどこにあるのか、って言うことも考えなければならないし、うーん。

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

ペレックの「美術愛好家の陳列室」水声社より近刊

水声通信6号 特集:ジョルジュ・ペレックを読了。雑誌なのでちょっとずつ読もうと思っていたのだが、面白かったので一気に読む。今までの特集の中で一番面白かったかもしれない。「文字落とし小説『失踪』を翻訳するとはいかなる企てなのか」塩塚秀一郎で、スペイン語訳が、eではなく、スペイン語で一番使用頻度が高いaを落として翻訳しきったことを知ってびっくりする。柳瀬尚紀のフィネガンくらい素晴らしい日本語訳がいつか現れることを願って。
この号には東京堂書店林健二氏への追悼文も2編収録されている。(佐野衛、黒田杏子)書店員の端くれとして僕も追悼を。しかし、「福田恒存全集」千冊も売るなんて。本を売ることの奥深さをかみしめる。

でもモラルでも契約でもなく

と帯にもあるとおり、スピノザの国家論はとても面白い。「内在性」でどこまでも行くことが、ニーチェドゥルーズネグリ&ハートに多大なインパクトを与えたわけで、しかも、『以下コレヲ欠ク』であるために、僕(たち)が考えていかなければならないところも含めて一生モノのテキストだ。読み終えるという事態を緩慢に先延ばししたいと思いつつ、しかし最後の一文字まで辿り着いてしまった「スピノザ 共同性のポリティクス」(洛北出版)浅野俊哉 でもこの問題群にはいつでも戻ってくるから。これ

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

も読み直さないとな。もちろんスピノザも。学生の頃は原文で読みたくてラテン語をかじったりもしたんだけど(もちろん挫折)レクラムの独/羅対訳版をちょっとずつ読んだのに4年も経つと文法すら忘れている。でも、時代が下って近代語に近い構文だったので、カテリナ弾劾よりは読みやすかった記憶がある。もうその記憶もうっすらだけど。

続中沢

「芸術人類学」、今日はⅢイデアの考古学を読む。なんかごまかされている気もしつつ(それは中沢新一の真骨頂でもあるんだが)やっぱり好きなんだよなあ。ここらへんの愛憎に覚えがある人はほかにも絶対いるはず。手放しで肯定はもちろんできないいんだけど、かといって否定するわけじゃない。どうしたもんだろ

飲酒の友に

飲む時すら本を片手にしてしまうのだが、昨日から「詩的自叙伝」(思潮社寺山修司を読み始める。酩酊にはぴったりの本だ。詩の森文庫、全部とは言わないまでも結構読んでるんだけど、これが一番好きかも。

今日購入した本

初めに言っておくと創文社の「哲学への寄与論稿」は読んでない。だから、読まずに済ましたくこっちを購入(またしても怠惰な態度を取る)これ装丁が好きだ。

ハイデガー「哲学への寄与」解読

ハイデガー「哲学への寄与」解読

哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻

哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻

全集もいつかは読みたいと思いつつ。

単行本持ってるし、何度も読み返したのに文庫が出るとまた買ってしまう。「あほらし屋」は文庫買ってないのに。この調子だと「一九七二」も文庫絶対買ってしまうな。解説は木下和郎。ブックス昭和堂の副店長で、『白い犬とワルツを』の人って言うほうが分かりやすいか。